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Œuvres de 大野 左紀子

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p159.~p160.
“ 何度かアドバイスをした後で「ここをもっと書き込んだ方が」と言うと「でも俺、頑張ったよ?」と口を尖らせる学生も時々います。いや頑張るのは当たり前。みんな頑張ってる。だから結果で判断されるのだよ(これからは)と諭しても、なんとなく不満そう。「先生、私、褒めて伸びるタイプだからもっと褒めて」。ダメ出しで「傷つく」のを極度に恐れている。集中力のない学生に「どうしたの?」と聞くと、悪びれた様子もなく「なんか今日は意欲が湧かない」。そういう自分の心情を理解し尊重せよということらしい。
 芸術大学でも驚くことがあります。アーティスト志望の学生が、アートに興味がないのです。洋画の学生なら洋画のごく一部の作家ぢか知らなかったり、現代アートに興味があっても近代美術から現代への流れについて知らなかったりするのは、彼らにとって“普通”のことでした。体系的知識をもつことはそれに縛られることで、「自由」ではないと思い込んでいる節さえあった。かと言って、ひたすら技術の修練に励むというわけでもない。
 では何に興味があるかと言えば「自己の感性」「個性」です。「現代美術演習」という授業をもっていた時のことですが、作品について「このモチーフが好き」以上の説明を求めると、「自分が好きってだけではいけないんですか」と不思議そうな顔をされます。人に分析されることへの忌避感情も強く、情緒的理解、共感を求めます。作品は作者の手を離れた瞬間からあらゆる解釈に向かって開かれる、もちろん批判もされるということが直視できないのです。大事なのはこの「かけがえのない私」の感情。無教養でも個性があればいいという「オレ様流」。大きな文脈の中に自分を位置づけて客観視してみようとしない「オンリーワン思考」。それでもアーティストにはなりたいと。
 もともと芸術は感性、感覚に支配される領域です。だから、諏訪氏の指摘した「現在の子どもたちは、客観的な事実(科学)よりも「この私」の感覚のほうを大事にする」(p114)という点は、創作に限って言えば必ずしも問題とは言えません。でなければ、科学と異なるものとして領域化されてきた芸術の意味はなくなるからです。問題なのは、「この私」の感覚さえ「大事」にしていればそれが他者に受け入れられる、それをどこにも通用させられるという妄信にも近い幻想です。”… (plus d'informations)
 
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enobrenbmugtem | Feb 16, 2013 |

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